さよならさよならハリウッド (Hollywood Ending) ★★★☆☆

Ura2005-09-13


監・脚・演  ウディ・アレン
出演  ウディ・アレンティア・レオーニトリート・ウィリアムズ、マーク・ライデル、デブラ・メッシング


嘗てはオスカーを二度も手にし、「巨匠」の名を欲しいままにした映画監督。それが栄光の日々は今いずこという感じであっという間に落ちぶれてしまい、このところ来る話はCMだのばかり。
ところがある日、彼を捨てた元妻の所属する配給会社から超大作の監督を依頼される。
この作品を成功させ、再びトップに返り咲きたいと思っていた矢先、極度のストレスが原因で突然目が見えなくなってしまう。
果たして映画は完成するのだろうか。

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オスカーを二度も手にし、「巨匠」と呼ばれ、挙句の果てには、得意な題材が「マンハッタン」。
どこかで耳にしたような人物描写だが、ウディ・アレンが第一作「アニー・ホール」から一貫して自身のコンプレックスと駄目さ加減を笑いのネタにしてきたことを鑑みれば、これはさして目新しい話でもなんでもない。
しかも、タイトルがこれまた「さよならさよならハリウッド」。
この作品でついにハリウッドに「さよなら」を言い放つのかと思ったのだが、実のところはどうなのだろう。
作中での映画監督ヴァルは「さよなら」を言い放つどころか、メジャーな配給会社がバックについた娯楽大作を撮ろうとする。
しかし、娯楽大作でヒットを飛ばして返り咲こうと思っても、そうは問屋がおろさない。
そこからがウディ・アレン特有のドタバタ劇が始まり、いわば彼の独壇場になるのだ。

ところがだ。
はっきり言って、この作品には、嘗てのウディ・アレン作品に見られたエッジが殆ど感じられない。
ここ数年ずっと感じてきた「ゆるさ」が、ここに至っても消えるどころか、妙な違和感は大きくなるばかりだ。
いちばんの違和感は、ウディ自身が主人公を演じることへのそれだろうか。
おそらく本人も一度は自分がスクリーンに出ることへの限界を感じ、メガホンを取ることだけに専念しようとしているのだ。それが、ケネス・ブラナーが主役を演じた「セレブリティ」。
ところが、あのイギリスの名俳優ですらが、ウディ・アレンの大きなイメージの呪いから逃れることが出来ず、出来あがってきたものは、単なるウッディの亜流に過ぎなかった。
それは傍から見て思うよりも、監督自身の決断に大きく影響するほど衝撃的だったに違いない。
「セレブリティ」以降、ウッディは再び主人公としてスクリーンで活躍することとなり、そのcreepyさは更に一作ごとに増していったというわけだ。


だからと言って、わたしがこの愛すべきNYの監督をこき下ろしたいわけではない。
彼の撮る作品は、そこにエッジが感じられなくなっても尚、職人的な編集のうまさと映像の妙で観るものを魅力することに違いはない。
ただわたしが残念だと思うのは、そこには往年のような辛口のユーモアも自嘲も韜晦も影を潜めてしまっているということなのだ。
逆にいえば、彼の作品には成熟した監督だけが出すことの出来る雰囲気や優しさに満ちているとも言える。
おそらく、一人の監督の作品を、現在のものと過去のもの、という風に対比させること自体にまったく意味がないのかもしれない。
しかし、ウディ・アレンファンのわたしとしては、愛すべきこの監督が嘗てのキリコのように自己模作をし始めたりするのを見たくないと思う。そういうちいさなちいさな願いを込めて、彼の作品を観続けるつもりということだけだ。