ドリーマーズ ★★★☆☆

Ura2004-08-27


ベルトルッチの新作「ドリーマーズ」を観て来た。
舞台は60年代パリ。アンリ・ラングロワがシネマテーク所長の座を追放されるというので、学生や映画マニアの間でデモが起こっていた。
それも当然、シネマテークというのはそもそもラングロワこそが設立したもので、映画マニアにとってはまさに、魂の父とも呼べる存在だったのだ。その上、このシネマテークこそがヌーヴェルヴァーグと呼ばれる映画における新しい「波」を生み出した場そのもので、若き日のゴダールトリュフォーなどはこぞってここへ出掛けては、映画のクラフトそのものを学び、身に着けたのである。

そんなパリの60年代を象徴するようなシネマテークで、アメリカ人青年マシューはフランス人の双子に初めて出会う。
フランス人の知り合いなど皆無というマシューにとって、この双子は幻惑的で圧倒的な存在、つまりパリそのものだった。
彼らは互いに親しくなり、マシューはすぐに彼らのアパルトマンに居を移すが、だんだんとこの双子のおかしなところに気づき始めた。彼らは姉弟でありながら、毎晩一緒に寝ているのである。しかも裸で。



この映画を実際に観るまでは、おそらくベルトルッチが若い頃に撮った「ラスト・タンゴ・パリ」をもっと若者らしい無防備な奔放さで包んだような作品なのだろうと思っていたのだが、期待外れだった。
というのも、この映画は終始若者特有のエゴを中心にして描かれていて閉塞的であるにも関わらず、かと言って思春期によく見られる葛藤があるわけでもない、なんと言うか、あまりに表層的な作品なのだ。
確かにフランス人の双子、イザベルとテオは美しい。そして彼らが持っている、異常と言うほどの一体感もうなずけないわけではない。
兄弟であろうとなんだろうと、容姿が互いに似ているということは、それだけ互いに対する親近感と一体感をもたらすものなのだ。しかもこの二人は実際に双子であり、それぞれ絶世の美貌を持っているのである。彼らの自己愛がお互いの上に投影されて、それが歪んだ愛の形をとってしまってもまったく不思議ではない。
しかし、この二人が延々と繰り返しているのは、単なる子供の遊戯でしかない。
途中マシューが二人に言い放つように、彼らは決して成長することのない、というか成長することを拒否した永遠の子供なのである。だからこそ彼らはテレビを見ることもないし、そもそも外界を受け入れないと決めて暮らしているのである。
そんな幼稚な彼らが子供らしい好奇心と残酷な興味を持ってセックスに興じたり、ところかまわず裸で歩き回ったりしていても、それは小さな子がはだかんぼで走り回っているのとなんら変わりない。そこにあるのは官能性ではないのだ。単なる裸体でしかないのだ。

それでも途中はヌーヴェル・ヴァーグの映画が時折挿入されたり、映画マニアの三人が映画トリビアをしていたるするので楽しめる。
しかし、だからといってこの作品が当時の空気や雰囲気を掴んでいるのかというとそうではなく、それは飽くまでも偽の60年代なのだ。

そして、物語が終わりに向かっていくにつれて、突然付け足し的に政治問題が介入してくるのも安易と言わざるを得ない。
家の中にさらに小さなテントを作って裸で寝ているのを親に発見されたことに気づき、イザベルが自殺を計るのも、そこに至るまでの伏線があまりに少ないので納得できないし、その後三人してデモに出て行くのもいまいちだ。



確かにこの映画には若者らしい過剰な自意識や無軌道な馬鹿騒ぎなどがふんだんに詰め込まれていて、登場人物が美しい故に魅力的に見える瞬間も少なくない。
しかし、要するにこの作品はそこで停滞しているだけに過ぎないとも言える。なぜこの双子とアメリカからやってきた青年三人だけの世界をもっと深く描くことが出来なかったのだろうと、残念な気持ちにすらなる。


そういえば、ちょっと思い出したので書いておくが、この映画はエッフェル塔から始まる。
エッフェル塔のエレベーターが降りていくのを追いかけるようにカメラの視線が動き、地上に達したところで「ドリーマーズ」というタイトルが出現するのだ。
これは死ぬまでずっとエッフェル塔に対する偏愛を持ち続けたトリュフォーのことを思い出させるし、その後にデモの先頭に立ってアジテーションをしているのがジャン・ピエール・レオーというのも、なんとなく愛しい。
そう考えると、これはほんとうにヌーヴェル・ヴァーグという動きに対するオマージュなんだなあ、と思わずにはいられない。