アフターダーク追記

Ura2004-09-10



村上春樹の新作「アフターダーク」を読み直していたのだが、気づいた事が幾つかあったので記しておく。


まずは、入れ替え可能と言うこと。
マリとエリが育った家や町こそがそもそも匿名性を具現化したような、どこにでもあるような中流家庭の家ばかりが並ぶ場所であり、物語を牽引する「視点」も、任意で彼女たちのことを選んでいるように思える。
選ばれたのはたまたまエリとマリだったが、それはほかの誰かでもありえたのだと言うこと。
それはマリが長い夜を過ごした後にようやく家へ辿り着き、二ヶ月眠り続けているエリの部屋へ入り、姉が寝ているベッドの横に体を滑り込ませながら、こう思うことからも窺わせる。


私はこことは違う場所にいることだって出来たのだ。そしてエリだって、こことは違う場所にいることは出来たのだ。(p279)


この入れ替え可能ということ。そう言って悪ければ、たまたまそうあってしまったところの現実、とでも言うべきだろうか。
この現実において人々の人生に多きく影響を与える「偶発性」とでも言うべきところの力は、狂言まわしの高橋にも見られる。というか、高橋と白川の間にある、不自然なほど顕著な共通性は、そういう力の存在を表そうとしているようにしか思えないほどである。
つまり、中国人娼婦が事に及ぶに至って突然生理になったという理由だけで、彼女を血まみれになるほど力任せに殴りつけ、挙句の果てには、すぐ警察に通報できないようにと、彼女の身の回りのものをごっそり持っていってしまった悪意の塊のような男と、まったく害のないように見える青年の間に、見過ごすことの出来ない共通点があるのだ。
それはおそらく、彼らがどういうわけか理由もなく「はんぺん」を持ち歩いており、牛乳を自分の食生活の中で特別なものとしているという、些細なことかもしれない。
しかし、一体ほかの誰が理由もなく、はんぺんを持ち歩くのか。
勿論、誰もはんぺんなんて持ち歩かない。
この些細な二つの共通点から、二人をお互いにそうありえたかも知れない分身と呼ぶのは余りに早計だろうか。
しかし、このことは高橋自身も感じているようで、白川宛にかかってきた電話を「たまたま」取った彼は、次のように述べている。




そのメッセージはほかの誰かにではなく、彼個人に直接向けられたものであるように思えてくる。ひょっとして、あれは偶然に起こったことじゃないのかもしれない。携帯電話はあのコンビニの棚の上で静かに身をひそめ、高橋が前をとおりかかるのを待ち受けていたのかもしれない。(p261)



今日はとりあえずこの辺で。


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