珈琲時光 ホウ・シャオシェン

Ura2004-10-13



ホウ・シャオシェンの「珈琲時光」を見てきた。
小津の生誕100周年記念に製作されたこの映画は、言わば小津へのオマージュだ。だからこそ、監督が外国人にも関わらず、全篇日本での撮影、そして日本語の作品になっている(のかな?多分)のだろうと思う。
とは言え、この作品が小津映画のパロディだったりするわけでは勿論ない。
確かに台詞台詞間の沈黙が圧倒的に多いことや、登場人物の後姿のショットが多いことなどは小津を髣髴させるが、ほんとうに彼の映画を彷彿とさせるのはそれよりも、問題解決への積極的な態度の欠如ということじゃないだろうか。

たとえば、一青窈演じる「ようこ」が妊娠している事実に対する彼女の両親の反応。
娘の恋人が台湾在住の台湾人であり、しかも聞いてみると娘は恋人と結婚する気など毛頭ないという。その上、妊娠している当の本人は、そのことについてはなんら思い悩む様子すらない。彼女はただ、妊娠したから自分ひとりで子供を育てようと、当たり前のように思っているだけなのだ。
そんな娘を見て、両親はなんら積極的な詰問やら尋問、もしくは問題解決方法の提示するわけではない。
小林稔侍演じる父親に至っては、ただただ口を噤んで、時折何か言いたそうな顔をしてみせるものの、実際に娘を叱ったり励ましたりするわけではない。

ようこの友人「はじめちゃん」にしたってそうだ。
彼は明らかにようこに恋心を抱いているにも関わらず、その思いを口に出そうとしないばかりか、道端で何の気なしに妊娠していることを彼女に告げられても尚、何かを聞き出したり問い詰めたりしようとはしない。
その様子はようこの父親とかなり似ていて、時折何か聞きたそうな言いたそうな顔をするのだが、そして実際突然ようこの家を訪ねてきたりするのだが、結局最後まで何かをするというわけではない。


なんら波乱万丈なことが起きるわけでもなく、日々の出来事が淡々と騙られていくこの作品でいちばん印象的だったのは、一青窈の存在だ。
彼女はかなり有名な歌手だが、別にモデル出身でもなんでもないので、驚くほどの美貌などと言うものは持ち合わせてない。
しかし、彼女の存在は例えば女子中学生だけが持つような、その場限りの輝きとでもしか言いようのない美しさにあふれている。
それは数年後、あるいは次の瞬間にも消えてしまうような類の存在感だからこそ美しいと呼ぶしかないような、そんな光。
そういう姿をスクリーンの上で見るのはかなり新鮮だった。
 
ところで映画を観終わった後、ふと思ったのだが、こういう沈黙の文化とでもいうようなものって、いまだに日本に存在しているのだろうか。
わたしが今、小津の映画を観ても、なんとなくエキゾティックな思いを抱くのと同様、この作品を見ても自分の国の自分の文化を見ているようには思えなかった。
それはもしかしたら、わたしが個人的に理詰めの文化に馴染んでいるだけなのかもしれないし、あるいは傾向として日本全体が言葉に依存する方向に向かっているのかもしれないし、わたしには良くわからない。
でも一ついえるのは、こういう映画を撮れたのは、多分監督が外国人だからだよな、と言うことだ。
そういう意味で、この映画はかなり小津の流れを汲んでいるような気はする。


ちなみに舞台となるのは、新宿や渋谷のようなモダン・トキオではなく、神保町だったり都電荒川線だったりという、かなり古い伝統的な町並み。
ようこがコーヒーを飲みに行くのもスターバックスでは決してなく、純喫茶とでも呼びたいようなレトロな構えの店だ。
こういうのも確かに小津ちっくだよな。
でも現代日本に住んでいる身としては微妙。これは嘘ではないけど、真実でもないよ、と言いたくなってしまう。ま、映画なんだからそんなものと言えばそんなものか。