Shattered Glass(ニュースの天才) ★★★☆☆

Ura2004-12-09



「ニューパブリック誌」という権威ある雑誌の記者である若干24歳のスティーヴン・グラスは「ハッカー天国」という記事をすっぱ抜き、一躍一流記者としての地位を得るかのように思えた。
ところがこの記事を読んだオンライン出版社のフォーブス・デジタル・フォースの編集長と編集員アダムが捏造の事実を突き止める。
その後、グラスの初期の記事などを調べたところ、この記事が最初の捏造ではなく、なんと43本のうち実に27本ものでっちあげをしていたのだ。
当然グラスは解雇され、ジャーナリストとしての命を絶たれることになる。

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この映画の面白さというのは要するに、表層的なあらすじの牽引力でしかないと言えるだろう。
「事実は小説より奇なり」とは往々にして真実だが、それがこと創作の範疇でのこととなると、はてと首を傾げたくなることしばしば。
というのは、真実の物語という安っぽい謳い文句に騙されてしまう人は、おそらく芸能人の暴露本を喜んで読む手合いとそれほど変わらないように思えるからだ。
確かにこの物語はすごい。想像を遥かに越えた強烈なインパクトがある上、それが実際に起こった出来事だというのだから驚かないわけにはいかない。
しかし、これが映画という作品としての評価に直接つながるのかというと、それはまた別の話だということなのだ。

作中、主人公のグラスを演じているヘイデン・クリステンセンは素晴らしい。
彼が自分のでっち上げが暴露されること、強いては解雇を恐れる姿や、相手の顔色をうかがいながら「Are you mad?」と尋ねる姿はまさに小さい子が恐怖に脅えるのと同様で、憐れを誘いこそすれ、とてもじゃないが憎むことなど出来ない。
実際、彼の捏造が発覚しそうになって、プレッシャーと焦燥感に苛まれていく過程などは、少年時に何か問題があったのじゃないかと思うほどで、その辺をもっと掘り下げてくれたら更に面白くなっていただろうにと思わずにはいられない。
彼の周囲にいる人物たちにしたってそうだ。
あたらしくリパブリック誌の編集長に就任したばかりのチャールズ・レインが徐々にグラスのおかしな行動に気づいていくところなどは別としても、一人の人間としての描写にはまったく欠けているとしか言いようが無いし、グラスの過失を必死でかばおうとするケイトリン(クロエ・セヴィニエ)とグラスの友情関係などもまったく触れられていない。
つまり、既に言ったように、この映画はあらすじの突拍子の無さ(インパクトといってもいい)だけで引っ張り抜いた作品でしかないのだ。
勿論、役者たちが見せる素晴らしい場面は幾つもある。
しかしそれさえも、薄っぺらな脚本のもとでは惜しいばかりだし、勿体無いという思いが募るばかりだ。

いちばん酷いのはそして、終盤のほうの場面だ。
一方ではチャールズによってグラスが初期の記事でも捏造を行っていたことが暴かれ、また一方では故郷に帰ったグラスが出身高校の生徒たちを前にジャーナリズム論について語る。
それが交互に描写されるのだが、その二つの視点がどういう意図によって成り立っているのか今いち明らかじゃないのだ。
確かにチャールズは編集長になった時点では未熟な編集員であり編集長であったが、それがグラスの事件をきっかけに「ほんものの」編集長になることが出来たのかもしれない。それが会議でのケイトリンとの意味深なアイコンタクトの意味だろうか。
しかしグラスのほうは良くわからない。先ほどまでジャーナリズム論に熱弁を振るっていたグラスが、ふと気づくと目の前には誰もおらず、空っぽの高校の教室に一人で座っているという場面になるのだ。
これは果たしてグラスの単なる現実逃避を指しているのか、それとももっと別の何かを指しているのか、どっちにしても明らかにはならないのが納得いかないような気がする。


この衝撃的な物語、あるいは事件は世の中にジャーナリズムのあり方を問い、大きな物議をかもし出した。
しかしその「物語」が一旦芸術の形を取るからには、それがそのままノン・フィクションの形を取らねばならないということではないのではないだろうか。
それよりもむしろ、その「物語」に捻りやつけたしなどが加えられたほうがより真実らしく見えることもあるし、そもそも映画作品において「真実である」ことがどれほどの価値を持つというのだろう。
そろそろアメリカ映画は、「真実の物語ベース」というヒット作への布石を外す努力をすべきだと思うのは、何もわたしだけではあるまい。
想像力を駆使する労を惜しまなければ、これからいくらでも素晴らしい映画が作られ得ると思うのだが、どうでしょう。