Forgotten, The(フォーガットン) ★★★★☆

Ura2005-06-14


監督  ジョセフ・ルーベン
出演  ジュリアン・ムーアドミニク・ウェストゲイリー・シニーズ


9歳の息子サムを亡くして以来、悲しみに暮れる毎日を送っているテリー(ジュリアン・ムーア)。
彼女は息子の死から一年以上たった今でも、サムのことを一時も忘れることなく、毎日を送っていた。
ところがある日、自分たち夫婦とサムが一緒に写っていた写真が、夫婦だけの写真とすりかえられている。
テリーは夫に対して、なんて酷いことをするんだと詰め寄るが、彼は何もしてないという。
それ以外にも、テリーの記憶にどんどん綻びが出始め、ついには精神科医と夫が揃って、そもそも息子なんて存在しなかったのだと言う。彼女は流産した悲しみのあまり、自己防御の策として、偽の記憶をでっちあげたのだと。
わけがわからなくなったテリーは、息子と同じ飛行機に乗っていて同じく事故にあった娘を持つ父親、アッシュの元に行く。

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なんだかわたしはジュリアン・ムーアが出演しているというだけで作品を過剰評価するきらいがあるようで、この映画も面白そうだというのとはまた別に、彼女が出演しているからという理由で観ることにした。
ところが、そんなわたしの独断と偏見に満ちた期待にも関わらず、この映画はほんとうに面白かった。
・・・途中までは。


息子の死から時間が経ってもなお、悲しみに暮れ続けるジュリアン・ムーアの様相はすさまじいし、悲哀に満ちている。
そして彼女が生きていく上で唯一の現実であるところの「息子の死」が実は自分自身の妄想に過ぎないのではないかと分かったときのパニックぶりもすごい。
昨日までは息子の写真でいっぱいだったアルバムが今日は真っ白なページで埋まっており、昨日は観ることの出来た息子の記録ビデオが、今日は砂嵐しか映さない。
つまり、自分の存在と信念を根底から揺るがす出来事が起こった時に人間が取る行動というのは、二つに分かれると思うのだ。
ひとつは完全に人格が空中分解してしまうということ。
で、もうひとつは作中のテリーのように、自分(つまり息子の存在を)を信じ続けて、自分が正しいことを証明するべく立ち向かうということ。
この映画のジュリアン・ムーアを見ていると、幼い頃に「グレムリン」を見て決定的に植えつけられた「アメリカの女は強い」という見解が再び湧き上がってくるのを感じた。
つまり、グレムリンたちを目の前にした一家のお母さんは、まったく逃げることなく、それどころかグレムリンたちに立ち向かい、彼らをある時はレンジの中に放り込んでチンしたり、ある時は包丁を振り回して追い払ったりする。
まったく三つ子の魂百までとはよく言ったものだが、あの時目撃したアメリカ人女性のたくましさに対する感銘は今でも色褪せてないのだ。
勿論、ジュリアン・ムーアの見せる「たくましさ」というのは、「グレムリン」のお母さんとは違って、風にしなう柳のような強さではある。
彼女は決して悪魔のような生き物を焼き殺したりはしないが、「息子がかつて存在した」という事実に対する信念は、単純な暴力行為よりもはるかに強く、感動的ですらあった。


ところがこの映画はオチがどうも、あまりにも馬鹿馬鹿しいというかなんというか。
途中、ジュリアン・ムーアの台詞(”you might think that I’m out of my mind or something”とかだったような気がする)が伏線になっていることからもわかるが、ほんっとうにout of my mind的な馬鹿馬鹿しさなのだ。
これが前半のすばらしさをすっかり潰しているなあと思わざるを得ない。
まあ、いちいちオチは言わないけれど。

それと、一緒に逃げ回ったアッシュとの関係性やテリーと夫の関係性も希薄かなあと思う。
テリーとアッシュの間には一緒に行動している間に戦友同士のような絆がやがて生まれるのだが、事がすべて片付いた後、それも簡単にチャラになってしまっているのも、なんだか拍子抜けだった。
夫との関係に至っては、もうなんていうか、深い愛情はなかったのかなと勘繰りたくなるような感じだった。


とにかく、この映画はオチですっかり躓いているのが残念。
しかもその躓きはかなり致命的だ。