ベガルタVS札幌/ センセイの鞄

Ura2005-08-14


えーと。先週の土曜日からずっと風邪ひいて寝ていました。(現在8月19日)
土曜日は勿論、ベガルタVS札幌戦をしっかり観戦し、失望の底に突き落とされ、しかも梁の北朝鮮代表が見送りとなり、夜にはついに熱まで出てしまう始末。
まさに泣きっ面に蜂。(札幌戦についてはテレビ観戦なので割愛)


ところが日曜日には友人と「センセイの鞄」という音楽劇(!)を観にいく予定になっていたので、新幹線でわざわざ東京まで行き、ジュリー以外はお話にならないという酷い劇を見て、また更に具合を悪くしたりしました。
いや、しかし、この去年だか二年前だかにドラマ化された「センセイの鞄」(川上弘美原作)も拙い出来だったけど、今回の劇も同じ人が演出を担当しているため、同じような演技、同じような演出。
冒頭の居酒屋の場面で、居酒屋主人のモト冬樹とともにエキストラの客たちが歌い踊りはじめたときには、どうなることやらと頭痛がしたが、その後は基本的には、ああいう感じで淡々と話が進む。
芝居にしてしまうと物語の筋が大幅に削られているため、多分小説を読んでない人にはあまりにもあっさりと物足りない感じだったのじゃないのかなあ。
それともジュリーを目の前で見られるだけで満足なんだろうか。

ちなみに特筆したいのは主演のジュリーこと沢田研二の「センセイ」と坂井真紀の「月子さん」。
テレビ版ではセンセイを榎本明が、月子さんをキョンキョンがやっていたのだが、榎本明のほうはイメージのミスマッチにも関わらず演技力で大分カバーしきって、彼なりのセンセイ像を作っていたのだが、キョンキョンのほうはどこからどう見ても要するに「キョンキョン」でしかなく、小説の良さを根底から揺るがすほどの違和感を生じさせていた。
今回も演出を同じ人が担当しているからなのかどうかはわからないが、劇での坂井真紀はまさにそのキョンキョン版月子さんを見事に踏襲しているなど、想像力の欠如が随所に見られ、憤りを感じた。
特に故意にやっているのであろう、坂井真紀の不必要に無気力っぽい、低い声は、意図はわかるものの、完全にその意図を裏切る結果となっていた。

一方のジュリーは観劇前の予想を見事に裏切る好演ぶりで、出演者で一人だけずば抜けた声量と歌のうまさということを別にしても、随分魅力的な「センセイ」を演じていたように思う。
はじめに登場したときはやっぱりちょっと太めな姿だったため、わたしの中の「すっかり枯れきったセンセイ」像は一瞬にして打ち砕かれたのだが、それはそれとしても、その後の小さな小技の積み重ね(たとえば柿ピーナツをリスのような音を立てて食べることなど)によって、芝居が進めば進むほど観客の視線を独り占めしていたのではないだろうか。
そりゃ、大方の「センセイ」像とは大幅にずれた解釈だろうし、ひょうきんなところのある「センセイ」だったけれど、わたしにしてみれば、これは楽しい驚きだった。


そんなわけで、ジュリーの歌と芝居は満喫したものの、作品としては完全な失敗作だったのじゃないかと思う。
友人とこういう妙な作品を観られたのも楽しかった。


センセイの鞄

センセイの鞄