マリーアントワネット

Ura2007-02-24


ようやくのことで今日、「マリーアントワネット」を観てきた。
いやー、ひどい映画だった。
これまで「ヴァージン・スイサイズ」と「ロスト・イン・トランスレーション」で培った、ソフィア・コッポラに対する信頼が、根底から揺れてしまった感じ。
はっきり言って、最後までなにに焦点を当ててるのか、さっぱりわからなかった。


確かにこの作品はどこからどこまでもガーリー・ムーヴィーだ。
悪名高きフランス王妃としてのアントワネットではなく、14歳でオーストリアからフランス宮廷という、魑魅魍魎がはびこるところへと輿入れしたアントワネットという「女の子」を描きたかったコッポラの意図はよくわかる。
彼女が娘らしい結婚に対する夢を抱いて異国にやってきたものの、蓋を明けてみれば有名無実という結婚生活をする羽目となる。
その一方で祖国の母親からは、早く夫を陥落しろだの、子供を生めだの、跡取りを生むまではお前の身は安泰じゃないだのと、殆ど恐喝に近いような口調で、フランスと祖国のかすがいであることを強いられるのだ。
たったの14歳で恐ろしいフランス宮廷に足を踏み入れざるを得なくなったばかりか、殆ど毎日四面楚歌といった毎日を送るアントワネット。
そりゃ、連日のように取り巻きたちと乱痴気騒ぎをしても、ひと時の恋愛に現を抜かそうとも、彼女を責められるものではない。
しかしだ。
本作では、アントワネットの心中葛藤を描くでなし、歴史的事実を描写するでもなし、はっきり言ってすべてが中途半端なまま投げ出されているようにしか見えないのだ。
そもそも、ガーリー・ムーヴィーという本来の狙いがありながら、フランス革命後まで物語を引っ張っていく、監督の意図がわからない。
映画の長さに対して、詰め込む情報が多すぎるために、子供の死亡という悲しい出来事すら、雑としかいいようのない表現で終わらせられたりしているのも残念だった。

そういうことを考えるにつけ、いっそガーリー・ムーヴィーなら、ガーリー・ムーヴィーと開き直ってしまい、14歳で輿入れしてから、夫との床入りまでを、コッポラ得意の青春映像で綴っていけばよかったような気がしてならない。
それを、アントニア・フレイザーの伝記を、そこここと適当にエピソードをつまみ食いするからいけないのだ。


なんにしても、この映画は期待していただけに失望の一言。
せっかくヴェルサイユで撮影していて、美しい映像がそこここに見られるのに残念だ。
あと、やっぱり、フランス宮廷の人々が英語を話してるのはおかしかった。
終始英語なのに、子供だけがいきなりフランス語を話したり、お互いの呼び名はフランス語だったりするのも、面映い。
その辺の感覚はなんというか、アメリカ人だよな、と思ってしまう所以だ。