人生におけるきらめき

Ura2004-12-12



ミシェル・ウエルベック著 「LANZAROTE」


本著の主人公は同小説家の主人公に見られがちな特質を例に漏れず備えている。すなわち、人生に何も期待しておらず、親しい友人を殆ど持たず、セクシュアルな体験について殆どタブーらしきものを持たず、なによりもパリでの生活にうんざりしている。
だからこそ彼はランサローテ島(そう、この本のタイトルは地名なのです。しかも島)くんだりまでわざわざ正月休みに出掛け、一時でもパリでの生活から抜け出そうと画策する。
しかしだからといって、彼が島でのバカンスに多大なる期待を抱いているのかというとそういうわけではまったくなく、要するにその旅行はというと単なるパックツアーなのだし、という感じで最初から諦めきっているのだ。
この諦念は厭世観と根深いところで結びついている類のものだが、主人公は旅先で、これまた人生にうんざりしている男に出会う。その名はルディ。
ルディはベルギー人で警察官をしているが、ベルギーという国を心底軽蔑しきっている。実際彼はこの国のことを「ベルギーなんてそもそも存在すべきじゃなかったんだ」などと言うのである。

この人生を諦めきったふたりの行く末はしかしまったく異なっている。
このふたりの人生の岐路こそがまさに本書の面白いところで、主人公がルディを見つめる目はあくまで冷静であり、決して彼を見下す態度ではない。
むしろ、彼に起こったことを「自分、あるいは自分以外の誰にでも起こりうることなのだ」と述べ、暗い影の力のようなものが蔓延しているような夜に脅えたりするのだ。

わたしがウエルベックの小説にこんなにも引き込まれるのはおそらく、人生に対してなんら期待することのない男がある瞬間突如として発見する人生のきらめきのようなものに、主人公と同様に胸をときめかせるからだろうと思う。
人生はくだらなく長く、得てして馬鹿げている。
ヴィアン風に言えば、「醜いやつらは皆殺し」と思うようなことも少なくはない。しかしそれでも人生は続くし、人間は生きていかねばならない。
そして我慢して歩き続けていけば、そしてちょっとばかり運が良ければ、その「きらめき」を目撃することもある。
つまり、そういうことなのだ。

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湯浅 健二著 「サッカー監督という仕事」  

ドイツにて、ドイツサッカー協会公認のスペシャル・ライセンス(プロサッカーコーチライセンス)を取得した著者が、サッカーの監督というのはどういう仕事なのかということを書いた本。
まだ途中までしか読んでいないが、なるほど100年もの歴史があるヨーロッパにおけるサッカーの監督という仕事は、日本におけるそれとは大分違うようだ。
それはつまり、学校において体罰が平気で行われていたり、いまだにスポーツにおける極端な精神論がまかり通っている一方で、科学的に教育学理論を取り入れた教育を行っている状況があるという違いとまったく同じだ。

最近サッカーに心酔するあまり、そろそろ理論武装の必要を感じてきての読書。
どんな分野においても知識というのは役に立ちこそすれ、無駄にはならないと思うのです。勿論、知識が足かせになるということは十分ありうるので、その辺には気をつけようと思いますが。