家庭 ★★★★★/ 評論の存在意義

Ura2005-01-16



家庭 (Domicile Conjugal) ★★★★★

監督  フランソワ・トリュフォー
出演  ジャン・ピエール・レオー、クロード・ジャドほか


いわゆる「ドワネルもの」と呼ばれる、アントワーヌ・ドワネルを主役にした映画五つの内、四つ目の作品。
クリスティーヌと結婚したアントワーヌは平穏な毎日を送っていた。転職もうまく行き、妻やその家族とも順調、しかも子供まで授かるのだ。
ところが子供が出来たことによって、あるいは子供が生まれた時期にたまたまクリスティーヌとアントワーヌの間にちょっとしたすれ違いが出来てしまう。
その溝は徐々に大きくなり、ついにはアントワーヌが仕事場で知り合った日本人女性と浮気するところまで至ってしまう。

    • -

最近、山田宏一氏のトリュフォーに関する本を数冊読んでいたので、以前のように純粋に映画を楽しむというよりは、やや確認行為のような鑑賞になってしまったような気がする。
そもそもわたしは本にしろ映画にしろ、作品の前に評論を読むなどということはあまりしないし(絵画だけは別だ)、この映画は別に初めて観るわけではないのだが、頭に入っている小さな知識がどうにも邪魔をするようだった。
しかしそう考えると、評論の存在意義というのは一体なんなのかということを考えさせられる。
評論対象が本であろうと映画であろうと、他人の鑑賞を邪魔するようなことがあるのでは、評論など存在しないほうがマシなのではないかとすら、一瞬だが思ってしまった。
あるいは評論がそれ自体として純粋な芸術作品として成り立ちうるなら、それはそれで評論対象などというものは原則として必要ないのではないだろうか。

とは言え、山田氏の本で得た知識の数々は決して不快であったり不愉快なものではない。
それどころか、トリュフォーが女性の脚を特に好んでいたことや、エッフェル塔を必ず映画のどこかにちらっと登場させる縁起担ぎのような癖を知っていれば、映画を観ていて更に楽しい気持ちになることだって出来る。
ただ何というか、今回は個人的にやや本で得た知識のほうに意識が傾きすぎたきらいがあったというだけのことだ。
考えがやや飛躍しすぎたかなあ。