ハイ・フィデリティ

「ハイ・フィデリティ」を読んだ。
本書はジョン・キューザック主演にて映画化されており、わたしはそもそも映画が好きで小説のほうを読むことにしたのだが、本書もまた楽しく読める一冊になっている。
というのも、最も驚くのは、この小説自体が殆どそのまま映画化されていることである。
本書を下敷きにして映画の脚本をおこすのは、恐ろしく簡単だったのに違いない。
それほど何というか、映像を彷彿させる、リズムのある小説なのだ。


例えば、この小説には映画的な起承転結がある。
冒頭でGFに捨てられたばかりの主人公が、これまでの人生での失恋トップ5というリストを作り、どんどん読み進めていくうちに、この主人公がすべてのものにおいてリストばかり作ってばかりいるということが分かる。
つまり、この主人公は35歳という年齢になりながら、レコード店を経営し、日長一日店員二人と、「月曜日の朝に聴く曲トップ5」だの、「葬式でかける曲トップ5」だのというリストを作ってばかりいるのだ。
そういった生活、あるいは生きていくうえでの姿勢がつまり、GF(弁護士という安定した職業を持ち、将来のことを考えている)をして、家を出て行かしめているのだ。
ところが、そんな状況に陥りながらも、主人公は楽観的態度を崩そうとはしない。
GFに出て行かれたことは辛いけれども、きっと他の女の子と出会い、初めてのデートをし、付き合うようになり、一緒に住み、やがて結婚する、というような、はっきり言うならば、ティーネイジャー的妄想ばかりしているモラトリアムなのである。
そんな主人公が、なぜ自分は女に捨てられ続けるのか、という疑問を持ち、それを解決しようと奮闘し、ついには「オトナ」になるという、恐ろしく引き伸ばされたイニシエーションの物語となっている。


映画と唯一違うのは、映画ではアメリカが舞台になっているが、小説ではイギリス人が主人公となっているため、アメリカやアメリカ人に対する悪口が随所に散りばめていることくらいだろうか。
個人的には、イギリス人がアメリカ人に対してステレオタイプな意見を垂れ流していく様は結構面白かった。
ポリティカリーコレクトというのは美しい概念ではあるが、同時にブラックなユーモアを暗い場所に閉じ込め、あらゆる種類の差異を帳消しにしようとする、偽善に満ちた概念でもあるということを忘れてはいけない。


とにかく、映画を観て楽しんだ人も、音楽好きな人も、人生に行き詰まっている人も、つまりあらゆる人が楽しめるたぐいの本である。
ああ、でも、前述のように、これでもかという風に、音楽リストが延々と続くので、それが我慢できない人にはおすすめしません。
でもそれを除けば、これは軽いけれども十分楽しめる読み物なのではないだろうか。

ハイ・フィデリティ (新潮文庫)

ハイ・フィデリティ (新潮文庫)