性格診断って

しばらく前に読んだ、三浦しをん著「私が語りはじめた彼は」という本。
この作品では、大学教授村川という一人の男について、さまざまな立場の人間が語っている体裁になっている。
ある物語では、村川と別れることになる妻が「あの人はある種の女にはたまらない魅力を持っている」と語り、ほかの物語では、かつての助手が、昔の師が亡くなったことを知るにつけ、「先生に認められたかったのだ」と、思い知らされることになる。
それ以外にも、この村川という、なんとなく普通の男でもあるような、恐ろしげな魅力に満ちた男でもあるような一人の人間を中心にした物語が幾つもつむがれているのは、ひとつの試みとしては面白かった。第一、それぞれの人物が語る「村川」という男が、すべて違っているのが面白い。とてもじゃないが、一人の同一人物について語られているとは思えないのだ。

とはいえ、この試みは川上弘美の「ニシノユキヒコの恋と冒険」ほどロマンスと想像力に満ちているわけでもなく、その帯で翻訳家金原瑞人氏が褒めちぎっているほどの出来とは思えない。
なんとなく、技術が先行した、うまいけど小さくまとまった小説と思うのは、単にわたしの好みの問題だろうか。


それにしても、この三浦しをんの小説といい、川上弘美のニシノユキヒコ物語といい、人間の性格というものほどあてにならないものはない。
わたしはそもそも、「性格」というものは端から存在しないと、常日頃思っており、大事なのは性格などという胡散臭いものなどではなく、ようするに相手との「関係性」なのだ、と思っている。
つまり、わたしは当然だが、女性で誰かの友人であるという顔とは別に、娘であり、姉であるという顔も持っているわけだ。
そしてこれまた当然のことだが、誰かの「娘」であるわたしは、誰かの「友人」であるわたしとはまったく異なった言葉遣いをする。
こういう臨機応変かつ取替え可能な人間性が存在しているのは、なにもわたしが多重人格というのではなく、単に相手との関係性によって、いわゆる「性格」なるものが微妙に変化するためなのだ。
そういうわけで、わたしはそもそも性格診断などというものもまったく信じない。
あんなものは、ちょっと考えれば、自分の好きなように結果を出すべく操作できるものなのだ。
その証拠に?わたしは大学生の時分、心理学の授業などで色々なタイプの心理テストやら性格診断テストなどのサンプルをやってみたが、大体他人に見せたい自分像とでもいうべきものを結果として出すことが出来た。しかも殆ど90%以上の確率においてだ。


まあ、そんなことはどうでもいいのだが、とにかく、相手との関係性においての「性格」の変化というのは、ほんとうに面白い。
因みに蛇足だが、人間は話す言語によっても性格が若干変るというが、それもまったくの事実である。
それはおそらく、相手との関係性というよりも、その言語自体が持っている文化に人間性が影響されるからだろうと思う。
複数の言語を話す人が周囲にいたら、是非とも実証してみてください。


私が語りはじめた彼は

私が語りはじめた彼は

ニシノユキヒコの恋と冒険 (新潮文庫)

ニシノユキヒコの恋と冒険 (新潮文庫)